2020年4月29日水曜日

魔界塔士と神と

魔界塔士の神が大好きです。

神というと、どんな存在を思い浮かべるでしょうか。
古来からの風習で考えれば、人知の及ばない雲の上の存在。そして、神威をもってして、幸いも災いももたらす怖れ崇め奉られる存在。
俗っぽく捉えれば、願い事を叶えてくれる存在。救世主。という感じかもしれません。

昨今の創作物においては、神の定義も様々。
上記のような神もいれば、人間とそう変わらない神もいます。

今回の話題の中心となる"かみ"は、今からおよそ30年前に現れたシルクハットの彼です。

1989年の12月。スクウェアからGB初のRPG「魔界塔士Sa・Ga」が発売されました。
言わずと知れたサガシリーズの一作目。まさに伝説の始まりといえる作品です。

FF2と同様に、レベル制のないキャラクター成長システム。
人間はアイテムで成長し、エスパーはいつの間にやら成長&能力が変化している。
極め付けは、肉を食べて変身していくというモンスターのシステム。

何度か触れているように、わたしが初めてプレイしたRPGはSa・Ga2秘宝伝説です。
家には魔界塔士のカセットもあったのですが、秘宝伝説から始めた理由は、魔界塔士の成長システムを理解するのが難しかったことにあります。
当時、幼稚園児だったわたしにとって、秘宝伝説の方がわかりやすくプレイしやすかったのだと思います。

秘宝伝説に慣れてきたころ、再び魔界塔士に挑戦するようになりました。
けれども、玄武を倒し、最初の町の扉を開いたところで毎回のようにプレイを止めていました。
理由ははっきりと覚えています。塔を登ることができなかったのです。

どうして登れなかったのか、今になって思うと、「どうしたら良いかわからなかった」ことが大きかったと思います。
最初の世界では、つるぎ、よろい、たての3つを集め、玄武を倒すという明確な目標があったため、すんなりと進めることができました。

クリスタルを手に入れて封印の扉を開き、塔に足を踏み入れて。
3階の楽園(?)に進んだところで、この場所の意味が理解できずにプレイを止めてしまいました。この世界の先があるなんて思いもしなかったし、進もうとも思えなかったのです。

そんな状態でしたから、幼少期のシルクハットさん……神様への印象は、最初の世界で意味深なことをいう人。そして、チェンソーでバラバラになる人。というものでした。
兄のデータを使ってラスボス戦は遊んだことがあったので、有名なラスボス前のセリフもチェンソーネタも知っていました。

そんな彼が、どうして特別で大好きな存在になりえたか。

話は大学生の頃に飛びます。
インターネットで魔界塔士の攻略サイトを見つけ、3階より先に進む方法を知ったわたしは、再び魔界塔士に電源を入れました。
成長してゲームに慣れていたこともあり、プレイは快適そのもの。成長システムも理解し、サクサクとストーリーを進めることができました。

塔を登っていくにつれ、様々な世界がわたしの前に広がりました。
メイン世界である、海洋世界、空中世界、都市世界。そして、塔の内部に散りばめられた小世界たち。

この小世界の存在が、魔界塔士の世界観、しいては"かみ"に心惹かれる決め手となりました。
ここからは、小世界の話と絡めてそれらについて語りたいと思います。

※ネタバレを含みますので、これからプレイする予定の方は、ここでブラウザバックをおすすめします(一部サガスカのネタバレも含みます)。

3階の楽園と、4階の地獄。
楽園の人々は、快適な環境に浸かりきり、塔を登るという目的を放棄してしまっています。
地獄の人々は、苦しみに耐えればいつかは救ってもらえると信じている人もいれば、自分で逃げることを放棄し、死を待つだけの人もいます。
両者に共通しているものは、怠惰。
他人任せで、自分から動こうとしていない。自らの足で先へ進むことを諦めてしまっている。
それでは、創造主の御眼鏡にかなうわけがありません。ヒーローか否かをふるい分けるためのしかけなのだと思います。

13階と14階。
この世界は純粋に大好きです。塔は繋がっているんだなぁとほんわかできる。
13階のタコが可愛くて可愛くて…。解決した後のセリフ、「あめが ふってきたよーん!」は雨が降るたびに口にしてしまいます。口に出して言いたい日本語(・∀・)!

19階
シェルターの世界。
そこにあるのは、子供と父親の死体だけ。
父親の残した手帳にはことの顛末と、

"かみよ わたしのいのちとひきかえに このこたちを おまもりください!"

という悲痛な願いが綴られています。
父親にとって、神は救いの存在。すがるべき対象なのです。
……神の正体を知る前と知った後とでは、この世界への印象は大きく変わります。
このゲームの神が、一般的な神とは違う存在だということをプレイヤーは嫌というほど思い知らされるのです。

20階
資料室の世界。
本棚に、塔に挑んでは散っていった者たちの名前と記録が残されています。
これは、神が記録したもの。本の数だけ、神はゲームを楽しんできたことになります。
人間を同等の存在とは思わない、ただのモノ、ゲームの駒としてしか見ていないことがよくわかります。

サガスカの話を出してしまいますが、魔界塔士の神もファイアブリンガーも、人間を主人公に据えた点については同じです。けれども、人間に対するスタンスは正反対。
魔界塔士の神は、人間の可能性を信じてはいない。自分の理解を超えることはない、手のひらの上で踊るただのモノだと思っている。
一方で、ファイアブリンガーは人間の可能性を信じています。原初の神である自分を乗り越えて、自分には達成できなかった世界を実現して欲しいと望みを託している。

主人公側の人間からしたら、どちらの神様もシナリオを押し付けてくる存在に変わりない=同一の存在に見えるという点も面白いポイント。
この辺りはバルマンテ編のアーサー黒幕エンドがわかりやすいです(アーサーの戦闘回数が10位以下?の時に見れるED)。バルマンテとアーサーのセリフがどことなく魔界塔士のオマージュっぽいのですよね。

21階
老人がいる世界。
老人は、神様から授かったエクスカリバーを渡すためだけに、この世界に50年間もとらわれていました。
少なくとも50年前からこのゲームは始められていて、その間、誰もここまで登ってこれなかったことをこの世界は示しています。
このゲームがさらに昔から行われているとするならば、この老人も何代目かにあたるのかもしれません。
エクスカリバーを渡す。そのイベントを設定したいがために、神は1人の人生を犠牲にしているのです。

次の22階にはシルクハットさんがいて、主人公たちとアシュラ戦を心まちにしています。ゲームで言えばラスボス戦。クライマックスとも言えます。

アシュラ戦後
「もう1ど のぼってこれるかー?」
アシュラを倒すという展開は、神にとって初めてだったのかもしれません。
アシュラ=あくまを討ち倒すヒーローがほしかった。
普通のゲームならば、アシュラを倒した時点でクリアです。
はたして神は、その後のエンディングを考えていたのでしょうか。

もし、考えていなかったとするならば、彼は元々の伝説である

"せかいの まんなかにたつ とうは らくえんに つうじている という"

を実現するに至ったのかと思います。
「らくえんへの しんのみちが あります」
シルクハットの男は、そう言って主人公たちを導きます。

登る途中には、パワーアップした四天王との戦いが待っています。
もしかしたら四天王は、神が創り出すことのできるモンスターなのかもしれません。
パワーアップさせていることからも、楽園までは行かせたくなかったのか、はたまたそれすらも乗り越えてクリアして欲しかったのか……。

神の力を使えば、いくらでもゲームを引き伸ばすことはできたはずなのに。
この辺りの真意は、掴めません。ともあれ、四天王戦を経て主人公たちは真の楽園へと足を踏み入れることになります。

最上階
「これも いきもののサガか…」
有名な神との会話、そしてラストバトルです。
最上階で、彼はプレイヤー…主人公たちを「おめでとう」と称賛します。

そこで語られるのは、この世界の真実。全ては神の書いた筋書き通りに進んでいたということ。
最上階に辿り着き、神の言う通り願いを叶えてもらい…そう物語が進んでいったのならば、その後はどうなっていたのでしょう。
自分の言うことを聞いた彼らに興味をなくし、新たなゲームを開いたのでしょうか。それとも、再び彼らをゲームに利用しようとしたのでしょうか。

最上階にたどり着いた時点で、主人公たちは神の書いた筋書きから外れていたと私は思います。だからこそ、神=創造主を倒すことができた。自分たちで新たなシナリオを書く未来を選ぶことができた。

一方で、神にとってもシナリオにない展開はとても刺激的で楽しいものだったのではないかと思います。
「すべては わたしが つくった モノなのです」
彼は、こう言いました。つまり、これまで彼が見てきた光景は、すべて想定内のものだったのです。自分の頭の中にある構想を、映像化して楽しんでいたにすぎません。
自らが主人公と戦い、敗北する……そんな展開は、想像もできなかったはずです。

かみは しんだ

戦闘後、画面にはこう表示されます(システム的なものではありますが)。
自分が死ねるのだということも、神はこの時初めて知ることができたのではないかと思います。自らの命と引き換えに、飽き飽きしていた世界で、新たな発見をすることができた。
絶望して死んでいったのではなく、満足して散っていくことができたなら、神にとってもハッピーエンドだったと言えるのではないでしょうか。


長々と取り留めなく語ってしまいました。
上記の文章は私の解釈であるため、実際には異なる点や、解釈違いの点も多々あると思います。こういう考え方もあるんだなー程度に捉えてもらえればと思います。

最初にも述べた通り、魔界塔士はGBの作品です。
今の作品に比べると、グラフィックも演出もチープ。セリフも少ないです。
与えられる情報量が少ないからこそ、様々な解釈ができるし、想像が膨らませることができる。それが、今もなおわたしの心を捉えて離さない理由です。

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